目の前にある傷跡。そんなもの、初めからなかったかのように、見て見ぬふりをする。
ただそれだけで、傷つく人間がいることも知らずに。
ドアを開けて夏海を迎え入れたわたしに、彼女はぐったりともたれかかってきた。酒くさい。
夏海に肩を貸しながら居間まで歩く。
「今度は何」
わたしは夏海に伝わるよう、苛立ちを込めて言った。夏海は
「サークルの先輩が」
とだけ言った。今日は確か、サークルの飲み会があるといっていた。
「ねえ、飲み会で何かあったの?」
居間に運び込むと、夏海はそのまま床の上に寝転がった。その隣に座り、体を揺する。眠ってしまったのだろうか。わたしはますます苛立ち、夏海の頭を平手でたたいた。
大学に入っても、夏海の不安定な精神状態は慢性的に続いている。先の見えない、終わりの見えない苦しさというのは、本人だけでなく、周りを取り巻く人間すら苛立たせる。
重かった。もう、わたし一人では支えきれそうにない。耐えきれそうにない。誰かにもこの重さを分かち合ってほしかった。押し付けたかった。だから、サークルに入ることを勧めた。夏海の精神状態を余計に悪化させる行動だとわかっていながら。傷跡なんてもうないよ、と無理に笑わせた。
ないわけがない。ある。確かに残っている。
「怒った?」
情けない声で夏海が訊いてくる。
「いいから。何されたの」
自分の声が硬くなるのがわかった。夏海は、ガードが甘い。そこに付け込まれたら。
「わたし、こんな真夏に、毎日、長袖着てるでしょ」
「うん」
あぐらの状態から右膝を立て、相槌を打った。
「それを、酔った先輩がしつこく聞いてきた。はぐらかしてたら、急に、腕をつかまれて。みんなも、こっちを見て」
「それで」
「タトゥー彫ってんだろ、って。笑いながら、袖をまくられて」
声がだんだんと、湿りを帯びたものになっていく。
「見られた。傷跡。みんな、あんなに楽しそうにしてたのに、一瞬で、静まり返っちゃった」
そしてそのあと、何事もなかったかのように、見て見ぬふりをしたんだろう。
「もう、やだよ。夏希が行けっていうから行ってたけど、本当は、わたし……夏希ともっと一緒にいたい」
這うようにして近づいてきた夏海が、わたしの左足に、顔をうずめる。温もりと、一部の冷たさ。肌にじかに、夏海を感じる。
「うん」
嗚咽する夏海の髪を、指で梳く。
「わたしも」
重くたって、辛くたって。
もう、後戻りはできない。