今日こそ見つかるのではないか、今度こそ見つかるのではないか。
今さら見つかるはずがない。口では否定しながら、いつまでも、いつまででも、期待し続けてしまう。
きっとこれから先、生きている限り。
玄関先に座り込み、アパートの黄ばんだ白壁に頭を預けてから、どのくらい経っただろうか。
寝坊したうえ、準備まで遅い夏海に対して苛立ちが沸き起こりかけるが、日常的に夏海と接して培ってきた自制心でそれを抑える。彼女の準備が遅いのはいつものことで、音楽プレイヤーを使っての暇潰しもいつものこと。
怒鳴るのはやめにした。
「夏海」
イヤホンを外し、部屋の奥に向かって声をかける。
「待って」
夏海の声がしたあたりから、物をひっくり返す音がひっきりなしに聞こえてくる。イヤホンをしていたから気づかなかった。
「上がるよ」
と言いながら音楽プレイヤーを鞄にしまい、靴を脱ぐ。
「あ、待ってってば、夏希」
気にせずに居間へ行くと、とんでもないことになっていた。
本体から取り外されたタンスの引き出しが三段、空となって床の上に直接積み上げられ、そこに収納されていただろう洋服が部屋中にばらまかれている。小型のテレビに長袖のTシャツがだらしなく引っかかり、文庫本を吐き出した本棚が服の山の上でうつぶせに倒れている。
部屋の隅に立っている夏海に、
「何してんの?」
反射的に強い口調で言ってしまうと、彼女は泣きそうな顔でこちらを見た。
「見つからなくて」
「主語」
「ア、アームカバーが」
わたしは応えず、倒れていた本棚をまず引き起こした。アームカバーなんかのために、とは口に出さない。アームカバーひとつでこうなるのが夏海だ。
「夏海は引き出しを元に戻して、そこに洋服を畳んで入れて。そのときに見つかるかもしれないから。早くしないと店が混んじゃうよ」
小さく頷き、こちらの指示通りに動き始めた夏海を横目に、文庫本をひとつひとつ棚に戻していく。日に一度はおかしなことをする夏海と一緒にいると、ため息をつかずに過ごすことがなかなか難しい。
二百冊くらいあっただろうか。最後の五冊を手に取ったとき、洗濯機の蓋が閉まる音がした。一瞥すると、ちょうど夏海が居間に入ってくるところだった。洗濯ものでも見に行っていたのだろう。
本棚に向き直って
「あった?」
と聞くと
「なかった」
と返ってきた。
「ひと組も?」
最後の文庫本を棚に差し、もう一度夏海のほうを振り向いて目を合わせる。
夏の強い日差しから肌を守るため、腕全体を覆うアームカバーを身に着けている人もときどき見かけるから、夏海の傷跡を隠すためにはちょうどいい道具だ。一組しかないとは思えない。
「……ないの。あれしか」
「じゃあ向こうで買おうよ。どうせ今から洋服も見に行くんだしさ」
「駄目」
か細い声。
「あれが見つからないと、行けない」
我慢していたが、ついにため息をついてしまった。
「いい加減にして」
本棚の近くに置いていた鞄を左肩に提げて立ち上がり、右手で夏海の腕を引っ張って玄関まで行こうとすると、玄関のたたきの手前で、夏海が強く足を踏ん張った。意外に強い力。動かない。
「もう少し、探してから」
夏海のほうをひとにらみして、腕から手を外した。
「そう。じゃあいつまでもそこにいれば」
玄関先まで行き、スニーカーをつっかけて、重く厚いドアを押し開けて外に出た。
そのままの勢いでアパートの廊下を早足に歩いていると、後ろで、ドアが大きな音を立てて閉まった。
びくり、とした。張りつめていた体から、一瞬、力が抜けた。すかさず、おひさまがじりじりと肌を焼く。手で光を遮りながら見遣ると、来たときはまだ低い位置にあったそれが、天辺まで上ろうとしていた。今頃はこんな日差しとは無縁の場所で、楽しくお昼ご飯を食べていたはずなのに。
少し迷ってから、踵を返した。
重く厚いドアをもう一度開く。足元をよく見ずに靴を脱ぎ、居間へ行こうとしたら、何かに躓き、転びかけた。壁に手をついて、こらえる。左足を思い切りぶつけてしまったのは、夏海の右肩だった。
わたしが腕を放した場所から一歩も動かず、うずくまっていたらしい。
……気持ち悪い。
「泣かないでよ、あのくらいで」
吐き捨てると、夏海はゆっくりと顔を上げた。顔は歪んで、涙のせいで目もとのささやかな化粧が崩れ、眼そのものは充血しかかっている。嗚咽が止まらずに時折、しゃくりあげる。
もう一度思う。気持ち悪い、と。
目の前の、この、気持ちの悪いいきものを見下ろしながら、短気を起こしたことへの後悔と、泣けば解決すると思っているような振る舞いに対する、見つからないものに執着していることに対する苛立ちが、せめぎ合う。
やがて夏海の方から、口を開いた。
「夏希は、覚えてない、みたいだけど」
まだしゃくりあげている。自分でもそれに気付いたのか、それが一旦収まるまで間を空け、
「あのアームカバーは、夏希から、もらったの。去年、先輩に傷跡を見られたとき、次の日のお昼休みに、夏希がくれたんだよ。これなら不自然じゃないから、って。大事な講義を休んでまで、買いに行ってくれたんだよ」
言われてすぐに、思い出せた。そうだ、あのとき……。
「大切なの。夏希が、プレゼント、してくれたものは、みんな、大切。ひとつも、なくしたく、ない」
膝を抱えた夏海は顔を伏せ、丸くなった。
気持ち悪い。気持ち悪いけれど、その裏側にあるものがわかるから、嫌いにはなれない。
鞄をフローリングの上に置いて手を入れ、プラスチックの箱の中から、化粧落とし用のコットンを一枚、抜き取った。
夏海のすぐそばまで寄り、しゃがみながら、
「夏海」
名前を呼んで顔を上げさせる。そこへ、コットンを押し付けた。
夏海は一瞬、驚いたように身を引いたが、すぐに、されるがままになった。彼女の目もとのあたりを中心に、コットンで静かに拭う。
用済みになったそれを、ごみ箱に向けて放った。入ったのを見届けてから、
「化粧、直してさ。もうひと組、買いに行こうよ。また、プレゼントしてあげるから」
と言った。
「なくしたほうは、帰ってきたら、もう一回、二人で探す。それでどう? 夏海は、今度もなくすかもしれないけど、ね」
少しいじめたくなって、一言付け足した。
「なくさない。もう、絶対なくさないから」
涙を流しながら無理やり微笑む様子が、かつて怒る母親に謝り、許しをもらった自分を見ているようだった。
夏海は傷跡の残る腕で涙をぬぐいながら、立ち上がった。
居間に行ったと思ったら、彼女は小さな手提げかばんを持ってすぐに引き返してきた。
「化粧はいいや。待たせちゃうし。行こ」
夏海が先に、靴を履いた。靴紐を結ぶその背中を見ながら、これじゃあまるで母親だな、と苦笑いした。
薄暗い玄関先が、少し、明るくなった。
ぼんやりしているあいだに、夏海は靴紐を結び終え、あの重く厚いドアを押し開けていた。ドアを支えたまま、不思議そうにこちらを見る夏海の後ろから、太陽の光が薄く差し込んでいる。太陽の光の下で際立つ肌の白さ。あまりにも鮮明な白に、かえって輪郭がぼやけて見える。
きれいだった。
なぜかはわからないけれど、それがとても、哀しかった。
「さっきの話だけど」
わたしは靴を履きながら、呟いた。
「無理だよ、絶対になくさないなんて」
「え」
「でも、いいよ。なくしたときはまた言って。わたしが夏海にあげられるものなら、いくらでも、あげるから」
見つからないものに後ろ髪を引かれるのなら、それ以上のものをあげるから。
ぜんぶ。
わたしが、あなたにあげられるものは、ぜんぶ。