雨の日はときどき、あの日のことを思い出してしまう。
あの日の雨はもっと冷たく、肌を刺すような痛みをともなっていたけれど。
差し出した傘の下で、夏海が何度もライターの点火に失敗している。
じっと見下ろしているうちにいらいらしてきたので、
「代わって」
ライターと線香の束を貰い受け、傘を渡した。
一回目でライターに炎が灯る。
「すごい」
「すごくないから……」
湿り気を帯びた線香の先が、だいだい色に染まり始めた。ひかえめな煙を漂わせる線香を半分、夏海に渡す。袋にライターを戻して、また傘を受け取る。夏海は線香を墓前に供え、しゃがんで手をそろえた。黒いアームカバー同士がくっつく。傘を差しかけたまま、その背中をじっと眺める。小さな雨粒が傘にやさしく触れている。傾けた傘に隠れきれない右腕に、水滴がまとわりつく。
ここで眠る人が亡くなった十二年前のあの冬の日も、こんなさらさらした雨が降っていた。
ぼうっとしていると、傘をどける間も与えずに立ち上がった夏海が、傘にぶつかってきた。夏海の頭に弾き飛ばされた傘が、風にあおられて飛んでいく。
慌てて取りに行った夏海を横目に、鉛色の墓前にしゃがみこみ、線香をそなえた。わたしの持っていた線香は、濡れてしまったせいか、すでに火が消えていた。もう一度火をつけ直す気にはなれなかった。
あなたが生きていたら、夏海はもう少し、生きやすかったかもしれないのに。
うらみごとを零して立ち上がり、夏海の後を追う。夏海をあらゆる敵から守ってやりたいときと、一生消えない傷をつけてやりたいと思うときが交互にやってくる。こんな感情をわたしにも背負うように仕向けた相手には、とても、いい感情はもてない。
「ごめん! 夏希まで濡れちゃった」
引き返してきた夏海が、慌ててわたしの隣にやってきた。夏海が忘れたせいで傘がひとつしかない。同じ傘の下に入れてもらいながら、駐車場に停めてある車に向かう。夏海はとりとめのないことを喋って無理矢理明るく振る舞っていたけれど、わたしはあまりちゃんと聞いていなかった。あの墓石に気を取られていた。
バンパーの左側が潰れている、古ぼけた軽自動車の前まで行くと、傘を閉じた夏海が、来た時と同じように運転席側へ回った。わたしは助手席側にまわって、ドアを開いた。
夏海が雨ざらしのまま、後部座席のドアを開けてごちゃごちゃ何かを引っかき回している気配がする。いったん乗ってから探せばいい、と思ったけれど、いま言葉にするととげとげしくなってしまう。夏海の要領が悪いのはいつものことなので、苛立たないように息を深くして目を閉じた。
ばん。車が揺れ、続いて運転席のドアが開く音がする。目を開けると、視界を何かが覆った。わさわさと髪が引っかき回されている。
自分でできるから貸して。
そう口に出したつもりが、出せていなかった。されるがままにして、終わるまで待つ。
被せられていたタオルがどけられたあと、わたしの濡れた右腕を手に取って、丁寧に拭いてくれる。夏海の手が、ぺたぺたと皮膚に吸いつく。
「はい、終わり」
夏海の手が離れたので見ると、夏海が微笑んでいた。
わたしは目をそらした。
「ありがとう」
目をそらした先に、墓石の群れがあった。
夏海が髪を拭く音を聞きながら、雨粒の飛び散る窓に額をぶつけて、ぼんやり眺める。墓石は雨に打たれるまま、その体を濡らしている。
こういうときはいい。こういうときは、ずっとそばにいてやりたくなる。ずっとそばにいさせてもらいたくなる。
でも、こういうときばかりじゃない。
自分でも言葉にできない感情を、自分の腕に刻み付けるときは。それをわたしにも受け止めろと押しつけてくるときは。
逃げ出したくなる。逃げ出した瞬間、人ひとりの命が――夏海の命が、彼女の母親の眠る墓石に近づくのだとしても。
それともわたしの考えすぎなのだろうか。わたしなんかがいなくても、夏海はしばらくすれば別の依存先を見つけて、何事もなく生きていくのだろうか。
そこで考えが止められた。夏海が指先で頬を二度、つついてきたからだった。
夏海は何も言わずにキーをまわした。
他の人だったら、いきなり何を、と言うかもしれないけれど、わたしにはそれだけでじゅうぶんだった。この駐車場から出口までは舗装されていないじゃり道だ。このおんぼろ車で走るとがたがた揺れる。窓に頭をくっつけているとぶつけるから離れて、という意味だろう。夏海の行動の意味を補う作業にはすっかり慣れてしまっている。
「なんで笑ってるの」
「え、笑ってないけど」
「そう? 笑ってるように見えたけど」
夏海は首を少し傾げた。
シートベルトをつけていると、車体が揺れ始めた。
「この車、ほんとにひどい」
夏海がぼやく。
「そうだね」
そうだね。
笑ったかもしれない。
夏海といると、苦しいことばかりのはずなのに。
生きている、って気がするよ。