好転しなかった。
獲物の数はたしかに増えた。しかし新しい建物をつくるぶんだけ人手がとられている。
蛇腹も狩りに毎回ついて行くけれど、前までは狩りのたびにわきあがってきた高揚が一瞬もあらわれない。一度見た獲物は絶対に逃《の》がせない危機意識がそうさせるのだろうか。
他の集落に住む人間の姿もちらほら見かけるようになった。狼《おおかみ》同士の縄張り争いみたいに、獲物をめぐって喧嘩が起きることすらある。彼らが木の根元に尿をひっかけるのと同じように、自分たちの縄張りを示す旗を、地面に差しかけておくようになった。
急造の家に入ると、すっかりやせこけた黒犬を抱いて、不動が眠っている。もともと薄い彼の肉付きが、骨が浮き出るくらいにまで近づいている。そういう自分も、名人にからだを心配されるありさまになってきた。
『生かしてやれんかもしれん』
不動を守る立場を貫いてきた彼の父がそうこぼした。
不動はしわがれた弱々しい声で、歌を歌っている。
「歌ってるねえ」
不動の隣に腰を下ろす。この家に出入りするたび、不動のことをあしざまにののしる空気が、毎日びりびりと刺さってくる。
不動が何をしたというのだろうか。彼らの理屈では、不動が何もしていないことが問題らしい。何もしていない、というのはどこに目をつけている人間の言葉だろう。彼は目を開けて子供たちを優しく見守り、自分の鼻で猪《しし》汁のにおいをかぎわけ、開いた口の中で食べ物を咀嚼し、呑み込んでいる。
移住のとき、男衆のひとりは不動の口ずさんだ歌に激高した。生きるか死ぬかというときにのんきな、と。けれど不動はそんなこと、人一倍敏感に感じ取っている。感じ取っているからこそ、歌で、不安におののくみんなの気持ちをやわらげようとした。……はずだ。本当のところがどうなのかはわからない。ずっと一緒にいるという勝手な自負をもった他人の、勝手な思い込みかもしれない。
「歌は僕の……」
続きは聞き取れなかった。不動の声が背中に響いたのか、黒犬が目を開けた。しかしすぐに閉じられる。
「不動」
蛇腹は不動の隣に寝転んで、黒犬を抱く不動の体を、後ろから抱いた。
「不動……」
毛皮のはなつ獣のにおいに、不動の汗のにおいがまじる。
不動のうなじに顔をうずめて、いつかの歌を口ずさむ。
「あーしたーは 猪《しし》がとれるといーいなー」
「実ーをつけぬー 枯れた花の身なればー……」
不動は明るい旋律で新たな音節を加えて、悲しい歌詞をつけたした。
蛇腹は不動の短い髪に顔をうずめて、不動をさらに強く抱きしめた。
ここ最近ずっと、頭の中には、いつも狩場で見ていたあの北の山の威容が浮かんでいる。
「馬鹿が! 生きて帰れると思うのか」
外の炊事場で、猪肉の切れ端を水に漬け、炉の火勢を強くするため息を吹きこんでいた名人が、息を吹き込むのに使っていた筒を投げつけてきた。着こんだ毛皮の、腹の部分に当たって落ちた。背負った弓を名人の顔にぶつけないよう、肩にさげた麻袋がずり落ちないように気を付けながら、筒を拾って名人に差し出した。槍を持っているのとは反対の左手で。
「おばあだってどうにかなってるんだ。まだ誰も死んでない」
「黒犬と不動が死にかけてる」
「不動」
不愉快そうに、彼の名前を口にした。あの名人までもが。
それだけでじゅうぶんだった。
蛇腹は差し出した筒を地面に放りだし、名人に背を向けた。
水牢にお別れが言いたかったけれど、いまは湖で釣りだろう。こんな危険な狩りに同行させるわけにはいかないし、顔を見ると別れづらい。
「あの山は獣の領分だ! お前は獣だとでも言うのか!」
名人の怒鳴り声が聞こえる。
――わからない。
「お前はずるい!」
「俺がお前を助けようとすることなんて」
「わかりきってるはずだ」
「何が悲しくて」
「他の男に惚れてるやつを俺が!」
あとからやってきて蛇腹を追い越した名人が、ずんずん進みながら怒る。
「もし名人が死んだら、残った人たちはどうするの」
「おばあと『籠職人《かご》』がいる」
「不動に因縁つけてるクズ野郎ね」
「そんなに不動がいいか」
名人が立ち止まり、つぶやく。
「どうしても不動の子を産みたいのか。そもそもあいつは子を成せるのか」
「わからない。ただ、他の誰よりも不動に死んでほしくないだけ」
名人が振り返って、強調するように指を差してくる。
「言っとくがな。さっき不動の名前を機嫌悪く言ったのは、籠職人みたいな連中に毒されたわけじゃない。お前が……。いや、やっぱりいい。なんとなくわかれ」
名人のあえて子供っぽくした物言いに、蛇腹は胸の奥をちくりと刺された。
生活拠点を移したことによって距離が縮まり、北の山のふもとにはそうかからずに着いた。中腹から先は雪に覆われていたが、ここのところ降った様子はなく、まだこのあたりはそうでもない。
目標はただひとつ。冬眠している熊を仕留め、肉を持ち帰ること。熊には何の恨みもないが、不動の血肉になってもらう。そのためには熊がひそむ木の洞《うろ》や自らで掘った穴倉を、狼やその他の獣に気取られずに見つけ、中にいる熊を殺し、素早く解体しなければならない。
「日没が近づいたらすぐ帰るぞ。明日もある」
「うん」
頷きつつ、今日しかないと思っていた。まだ餓死はしないだろうが、そろそろ山をこえようとしている。不動のからだでは、いったん山をこえたらあとは転げ落ちるだけのように思える。
狼は夜、活発に動くことが多い。けれどこの山では何もかもが未体験だ。足音や衣擦れの音をできるだけ小さくするようにそろそろと動く。人の手が入っていない山で、獣道に沿うように腰をかがめ、ときには地面を這い、進んでいく。あまりに狭い道では、背負った弓が当たって枝を大きく鳴らすこともあり、そのときには動きを止めてあたりの気配をうかがい、しばらく経ってから動き出す。
なかなか進まず、同じ方向を探していてはあっさり日が暮れてしまう。二人で行動するのは断念して、二手に分かれることになった。ひとりになってもやることは変わらず、熊の痕跡を探して這いまわるだけだった。
別れてしばらく、直感で選び続けた道の先に、熊の好む実をつける木の群生地《ぐんせいち》があった。草は生えているが雪に埋もれていて、視界はだいぶひらけている。かがんだり這ったり無理な態勢をとって痛めつつあった腰をぽんぽんと叩きながら、辺りを見回す。ながめていると、皮をはがれされて肌を露出した木がひとつ、ぽつんと見えた。熊はときどき――意味はよく分からないが――あのようなことをする。足元を注視しながら雑木林を進んでいくと、途中に、白っぽい獣の毛が大量に落ちていた。さらに近づくと骨まである。喰らわれた残骸《ざんがい》だ。
熊を獲るときにはいつも複数人でいた。ときおり冬眠しない個体がいるという噂も聞く。背筋に冷や汗が垂れるのを感じながら、いっそう足音を殺して木に近づいた。
表面の皮が削《そ》ぎ落ち、無残な死にざまをさらす木に手を当てて、また見回す。向かいの木に、小さな穴が見えた。
いる。
なかば確信をもって穴を覗き込んだが、覗いてわかるほどの手前にはおらず、奥までは光が届かずに見えない。確認するには、何かを中へ入れてみるしかないけれど、冬眠中の熊は、眠りの浅い個体もいる。
ここで名人を呼んで空振りだったら、もう今日の熊探しは打ちきりだ。帰るしかない。逆に呼ばなければ、空振りだった場合の不利益がないけれど、いつも複数人でしている熊狩りを最後までやり遂げられるかわからない。穴の前に立ち、迷いに迷ったすえ、名人を呼びに戻ることにした。
やってきた名人もまた
「間違いない。いる」
と小声で答えて、安堵した。同時に、別の不安が湧き上がってくる。
「たったふたりで、できるかな」
「やれる。俺とお前なら」
移住のときとは違って、名人が少しのためらいもなく言い切った。
「じゃあ、わたしが起こすね」
名人はうなずき、少し後ろに下がって、槍を足元に放った。矢をつがえて、ゆるく構える。
蛇腹は名人がななめ左手に見えるところへ移動して、弓を構えて、頭の中で何度か矢を放った。頷き、槍を置く。
肩にさげていた麻袋から火起こしの道具と、もじゃもじゃした麻の繊維《せんい》の塊を取り出す。適当な葉っぱを下敷きにして、キリに火起こし用の小さな弓の弦をからませる。固定して十回ほど強くこすると、葉っぱに火が付いた。急いで麻の繊維をちぎってかぶせ、火種を取り込む。麻の繊維を丸くして下の部分を持ち、何度も振って、空気を取り込ませる。すると、繊維が激しく燃え始めた。さらに多くの繊維に燃え移らせて火勢を強くしたものを、穴の中へ放り込む。
同時に槍を置いた場所へ駆け戻り、弓矢を構えた。
それほど待たずに熊が飛び出してきた。
放つ。
矢が側頭部に突き刺さり、名人の矢も正面から頭をとらえたが、それでも熊は即死せず、名人に向かって突進した。弓を捨て、槍を拾って、目いっぱいの力で投げる。蛇腹の槍は熊の脇腹あたりを突き破り、名人の槍は胸を貫いた。そこへ至ってようやく熊の勢いは衰え、一も二もなく駆けていく名人を追いきれなくなり、やがて倒れこんだ。
次の矢を放つ準備をしていた蛇腹は、いつの間にか止めていた呼吸に気づいた。大きく息を吐いて、すぐに吸い込んだ。
よし!
叫びたくなるのをこらえて、こぶしを強く握るだけにしておいた。
まだ終わっていない。狼どもにかぎつけられる前に、素早く解体して、持ち帰らなければ。
すぐに、突き刺さった矢と槍を引き抜く。麻袋から解体用の石包丁を取り出すと名人が、
「俺がやる」
素直に石包丁を渡す。二人でやるより、熟達した名人がひとりでやったほうが早い。
名人がまず毛皮の部分から剥《は》ぎ始めたのを見て、ここは任せておけばいいと思い、顔を上げた。
周囲に動くものはない。
ただ静かに、山がたたずんでいる。
いつもの狩場だったあの山とは違う、耳が痛くなるほどの静けさに、ふと畏《おそ》れのようなものを感じ、肌が粟《あわ》立つ。
「うわ」
じっと周囲の警戒を続けていた蛇腹は、低い声に、何事かと視線を落とした。
「こいつ、子をはらんでやがった」
名人の手には、とてもこの熊のような大きさになるとは思えない、未熟な赤子が握られていた。血まみれの赤子の頭をひとさしゆびで軽く撫でた名人は、苦り切った顔でつぶやく。
「あれだけ連中に子を殺すなと言っておいてこのざまか」
「違う。たぶん、とどめを刺したのはわたしの槍」
「どっちにしたって、この山に、目えつけられたかもわからんな」
名人の手から、息絶えた熊の嬰児《みどりご》を受け取る。
そして静かに地面に横たえ、周囲の雪を集め、かぶせていった。
「二人とも、長生きできないかもね」
まだ開いていなかった小さな目に、最後の雪をかぶせた。
解体した熊の肉は、剥いだ毛皮で包み、麻紐で丸めた。帰りは集落へのにおいをたどられないよう、めいっぱい遠回りをすることになる。ふたりで持ち帰れそうな分だけ、手にとった。残りは、山へ還る。